「結婚」の心的次元における意味

  • 2020.07.22 Wednesday
  • 16:16

 

「結婚」は、「そのパートナーとともに自分の人生を棒に振ることだ」と言った人がいます。

 

「おおぉ、まさしく、その通り」と思いました。

 

こういう抑うつポジションから、結婚した場合には、やってくる様々な困難も乗り越えていくことができるのでしょう。

 

深層心理学的に言うと、結婚相手には「自分自身の何かを投影」しているわけです(結婚相手でなくても人間は誰かに投影をしょっちゅうしていますが)。

 

つまり、自分自身の心の全体性に向かってその相手と共に取り組んでいくのが心理的次元での結婚なわけで、ケンカのない夫婦がいるわけがありません。

 

むしろ、ケンカがないのはヤバいかもしれません(そうではないケースもあるかもしれませんが、プチケンカはあった方が健康と言えます。また、極端なケンカ、激突&離れるのが激しいのは、不健康と言えます)。

 

ユング派のグッゲン・ビュール・クレイグによれば、結婚はお互いの「魂の救済」であって、そのために「鎖でお互いをつなぐ」のであって、「もはやこの意味での結婚は少数にしかできないほどの天職となっている」そうです。

 

とはいえ、たいてい現実的には結婚は「勢い・間違え・寝違え」と言われるわけで、結婚してみたら「何でこんな相手と…」となりがちです。

 

子どもの健康からみれば、離婚した方がよいケースもあります。また、個人の人生全体の健康からみれば、離婚してはいけないわけではありませんし、結婚しないといけないわけでもありません。

 

にもかかわらず、「結婚」にはいろいろなイメージがつきまとい、それに振り回されてしまうことも多いようです。マスメディアや世間や伝統的価値観がそうさせる面ももちろんあるでしょう。

 

結婚するにも、離婚するにも、野口整体的には「やりきる」ことが大切です。

 

また、心理的に大切なのは、「自分がそれを、相手を、主体的に選ぶ」ということです。

 

 

第二派フェミニストに言わせれば、「結婚は特定の相手としかセックスしてはいけない制度だ」というのはその通りで、現代日本の制度的には結婚はそういうものなわけです。

 

近年は、日本でもパートナーシップ制度を独自に設けている自治体も出始めていて、そうしたところにも新しいパートナーシップのあり方への多様性の始まりを期待したいところです。

 

結婚は、多角的な方面から考える必要があるで、一概に「こうです」とは言いにくいのですが。ここに書きながらも、あれも書かなきゃ、これも書かなきゃで、すぐには書ききれません。

 

大事なことだけ書くと、結婚するとは、要するに「運命共同体」になるわけで、そこには何か長期的に共有する「目的」があるとよいように思います。

 

「運命共同体」が目的を共に生きていくには、その前に、個人の意志があるとさらによくって、そんな結婚ができたら人生は充実するのかもしれません。

 

「結婚って何ですか」という若い学生からのご質問があって、なかなか難問なわけですが、心的次元での意味を簡単にまとめてみました。

 

要約としては、結婚は「幸福ドリーム」ではないということです。

先回りしないこと

  • 2020.06.29 Monday
  • 16:40

 

人間関係を良好に保つコツのひとつは、「先回りしないこと」にあるように思います。

 

 

特に、子育てにおいてはとても大事なことです。

 

 

先回りする親に限って、子どもを自立させようと早くからひとりで何でもやらせようとしたり、習い事をさせたりする傾向があるようです。

 

つまり、過干渉です。

 

 

しかし、自立への近道は、子どもが「これしたい」と言ったときに、それがたとえ大人からみれば理にかなわない要求であっても、「はいよ」と応答することにあるように思います(もちろん、命の危険にかかわることは除きます)。

 

子どもは子どもなりの秩序で考えがあって、「自分はこうしたい」といっている。

 

これが自立心なのです。

 

 

しかし、この自立心を削ぎ落としている大人がとても多いように思います。

 

まだ大人社会のルールがわからない子どもに、大人の価値観や論理が通用するわけないでしょう。

 

まずは、子どもの秩序に大人が目線を合わせることが必要です。

 

 

そういう積み重ねをしていくうちに、子どもは自分のタイミングで自立していきます。

 

そのタイミングが来たときには、親がしっかりと手を離せるように、それまでの間に心の絆を育んでおくことが大切でしょう。

 

 

話を「先回りしないこと」に戻すと、大人同士の関係性でも先回りのやり合いがだんだん窮屈になり不自由になっていくことは誰でも一度は経験したことがあるでしょう。

 

「相手はこう思っているかもしれない」かどうかは、相手に聞いてみないとわからないのです。

 

わからないことは、先回りしないこと、忖度しないこと。

 

こういう風通しのよい関係性は、とても居心地がよいものです。

 

 

 

「私、これでいい」と「私、これがいい」

  • 2020.06.28 Sunday
  • 16:31

 

「私、これでいい」という心性には、大きく分けて二種類ある。

 

 

(1)(ほんとうはこれは嫌だけど、自己中心的に思われると困るから、私いい人だし)から出てくる「私、これでいい」。

 

ここには、不満や他者への期待が込められているので、「私、これでいい」の中にある「私、こう思われたい」に対して適切な反応をしてくれないと、怒りや悪口が出てくる。

 

これは、ちょっと不健康な心性です。

 

こういう場合には、まずは「私、これがいい」を積み重ねる必要があります。

 

 

(2)「私、これがいい」を積み重ねた先にある、「私、これでいい」は健康です。

 

そこには、「一番でなきゃ嫌」とか、「人からこう見られたい」とか、「完璧なもの」への万能感もなく、人生のわびさびが含まれた等身大なもの。

 

ここには、満足があります。納得感があります。充実感があります。

 

 

+++++

 

 

後者の「私、これでいい」に至るには、その前に、健康な自我でなければなりません。

 

小さな子どもが、「私、これがいい」と言ったら、「はいよ」と応えてくれる大人がいる。

 

そういう、安定した安全な関係性で、「私、これがいい」を応援されること。

 

これがないと、不満だらけの「私、これでいい」となってしまい、そのまま大人になっていった場合、親密な関係性の中でまるで子どものわがまま合戦のような依存関係に陥ることがあります。

 

「私、これでいい」が「謙虚さ」と勘違いされてきたため、実は、不満だらけの大人もたくさんいるようです。

 

そういう場合、まずは「私、不満があるんだ」と気づくこと。

 

そこからです。

 

抑うつポジションの素晴らしさ

  • 2020.06.13 Saturday
  • 15:36

 

「抑うつポジション」とは、精神分析家のメラニー・クラインが発見したもので、全体的な心の発達と他者との健康なかかわりを築くうえで、とても大切なものです。

 

しかし、「うつ」という言葉だからなのか、あるいは、抑うつポジションで感じる感情が一見マイナスな感情(例えば、「痛い」「悲しい」「あきらめ」など)であるからなのか、なかなかこの大切さを理解することは難しいようです。

 

「うつ」はいけない、という社会的な認識があるせいかもしれません。

 

高度経済成長期のような、あるいはバブル期のような、右肩上がりの生き方が良いと考える人たちが多いからかもしれません。

 

何事もないことが良い、傷つかないことが良い、と考える人たちが多いからかもしれません。

 

しかし、右肩上がりの成長は、必ずあるときを境に下り坂になることは、日本経済をみるまでもなく、「人間は老いていく」という事実を私たちは知っています。

 

何事もない方がよいと望むのは、何かあったときに苦しかったり傷ついたりした、あるいは誰も助けてくれなかった、あるいは自分の思い通りにならなかったからで、これらの痛みや悲しみを共感してくれる人がいなかったからでしょう。

 

傷ひとつなく生きることなどはできないことは、火をみるよりも明らかです。

 

むしろ、傷を活かす、レジリエンス力が近年は心理療法でも注目されています。

 

レジリエンスを発揮するにも、抑うつポジションを経過する必要があります。

 

抑うつポジションは心のテーマに応じて、何度も何度も経過するものですが、経過する度に、生きるのが楽になっていきます。

 

他者との関係が豊かになっていきます。

 

自分でやろう、という気持ちが湧き起こってきます。

 

何か嫌なことがあったときに、買い物をしたりスイーツを食べて一時的に気分良くなってわが心を観ないようにせず、試しに一度、カウンセラーと分かち合ってみるといいかもしれません。

 

これは、確かに、特に最初は「痛み」も伴いますが、確実に、自分の人生が実りあるものになっていきます。

 

しあわせの意味

  • 2020.05.17 Sunday
  • 10:44

 

このブログの説明文にも書いてある、「しあわせ」の意味について。

 

「幸せ」って、よく考えると、とても難しいものです。

 

なんとなく、みんな「幸せになりたい」と思っているようですが、それはどういうことなのか?

 

人よりお金があること、人よりイケメンとつきあうこと、人に自慢できる何かを所有することなのか?

 

名声を得ること、社会的に高い地位を得ることなのか?

 

自分の自己愛を満たしてくれる人と結婚することなのか?

 

自己啓発的なものが言うように、「なりたい自分になる」というものなのか?

 

「幸せになりたい」と妄想的に思っていると、自分にとって「良くない」ことが起こると、それを排除しようとか無くそうとがんばるケースがよくあります。

 

そうして、どんどん迷宮入りするか、家族の他の人たちが不健康になっていくというケースもよくあります。

 

「幸せ」の語源は、ラテン語でホロス(holos)です。

 

全体性という意味です。

 

全体性とは、男と女、陰と陽など、月と太陽など、相反するものが統合されていくということです。

 

また、「幸せ」は、「仕合わせ」とも書きます。

 

「仕事をする私」と、「仕事をするあなた」が合わさる。

 

ここに、仏教でいうところの縁起が生じるわけです。

 

「仕事をする私」とは、簡単にいうと「個として生業う」という意味でもあります。

 

そういう人たちが出会うことで、「幸せ」、つまり、天と地へとつながる経路が結ばれるわけです。

 

ここまでいくと、禅とかそういった境地の話になりますね。

 

量子力学的な話ともいえます(量子力学について誤解されている方も多くいますが)。

 

「幸せ」という感じが、縦線二本で、上と下とが同じ「土」で構成されているのは、何とも興味深いように思います。

 

特に、女性が「個として生業う」ためのプロセスは、ギリシャ神話などでは昔から複数あるものです。

 

ユング心理学では、『薔薇園』などにもこの錬金術の話が描かれています。

 

たいてい、女性は危機に瀕して、そこからひとりでひとつずつ地道に取り組んでいくのです(もちろん、いろいろな助けもあります。そして、女性は自分の意志によって失敗もするのです)。全部自分でやるのです。

 

昔から語り継がれ描かれてきている「結合ー死ー再生」のプロセスは、いばらの道です。

 

でも、どうも、この欲求のようなものを奥底に秘めている人が多くて、特に近年は、このプロセスを始めている(始めざるを得なかった)人たちも多くいます。

 

時代のせいなのでしょうか。なぜなのかはよくわかりませんが、傾向としてあるようです。何がいばらなのかというと、ひとつには「現実」に直面することがいばらなのです。

 

要するに、自分が傷つかないですむ「妄想」の中に生きていて、この妄想を維持するために防衛としてあれやこれやをやるわけで、そういう場合に、自分の「現実」をみることはきついのです。

 

精神分析の言葉でいうと、自己愛構造体をつくって防衛したり、巻き込み型で他者を暗黙のうちに使ったりという強迫的・パーソナリティ障害的な関係をつくってしまうのです。

 

こうしたことは、誰が悪いというわけでもなくて、運がいいとか悪いとかでもなくて、どうも、人間とはそういう生きものなのではないか、つまり、「最終的には全体性を欲するがゆえに自分で選んでいるのではないか」という気すらしてきます。

 

いばらの道ではあるけれども、苦が快となっていく、そして、他者との関係もしっかりと結ばれていく、確実な手ごたえのある、これまでに経験したことのない世界が開かれていく、生きていてよかったと思える、楽しい道でもあることを付け加えておきたいと思います。

 

症状を出し切る

  • 2020.05.03 Sunday
  • 12:44

 

新型コロナウィルスで、社会はいろいろと動きがある。

 

この状況を不安に思われている方がほとんどだろうが、私には何かとても安心する感じがある。

 

「あたふたしているのは、これまで自分の人生を国家や社会に頼り切っていたからだろう」と、先日、とある方とお話して妙に納得した。

 

その方はすでにご高齢だが、これまでの数十年をもともと社会的制度に頼らずにご自身で事業を営んでこられた方で、いまの状況を何とも思われておらず、むしろ好機だとすら捉えていらっしゃった。

 

実は、こういう方は私の周囲にはとても多い。

 

世の中が混乱している状況の中で、これまでと何も変わらずに生活し、むしろ楽とすら感じている方々がいる。

 

「症状を出し切る」ことは、健康(=ホロス=全体性)へ向かう途中で、とても必要なプロセスだ。

 

これは、体の面ではある程度知られていることかもしれないが、心もそうだし関係もそうだ。

 

体は熱を出したりといったかたちでわかりやすい。

 

が、心や関係、そして社会レベルにまでなると、とてもわかりにくい。

 

わかりにくいというのは、症状を出し切るまでに時間がかかるので、たいていは「悪化」「混乱」と捉えてしまい、変化のプロセスをまっとうできないことがままあるからだ。

 

心や関係、そして社会の症状を出し切るには時間がかかるけれど、日々の現実を粛々とこなしていく中にふと浮かんでくるものが次へのヒントになるように思う。

 

とはいえ、背後に「恐れ」があると、妄想になってしまうけれども。

 

「良くなる」とはどういうことか

  • 2020.04.30 Thursday
  • 11:24

 

先日、幾人かのセラピストや整体師と話したとき、共通した見解があった。

 

それは、「ここで来たら良くなるのにというところで、風邪を引いたり、子どもが熱を出したから行けないとなったりで、クライアントが来なくなる」ということだった。

 

これは、野口整体でいうと、めんげん(好転反応)に当たる。

 

また、精神分析でいうと、エナクトメントというものにあたる。

 

この時期は、セラピストにとってもきつい時期である。なぜなら、クライアントの投影同一化を受けたりすることがままあるからだ。

 

例えば、心理療法や整体を受けた後、「高熱で40℃近くでた」とか「転んでねん挫した」となると、因果論的思考になれている現代人からすると、「セラピーを受けたらそうなった=悪くなった」と考えがちだからだ。

 

心理療法や野口整体をやっている立場からすれば、好転反応だけれども「好転反応が怖い」という声はよく聞く。

 

それなら、取り組まなくてよいだろうと思うし、そのままで生きたらよいのだろう。どこかの段階で家族の中の誰かが、問題を引き継ぐだけだろうし、自分の人生を誰かに預けたまま死んでいくのが向いている人もいるだろう。

 

ちなみに、ドンネル・B・ スターン(精神科医)によれば、「解離とエナクトメントは、認めがたい自分のある側面を回避し、その側面を〈他人に押し付けること〉、つまり《対人関係化》しようとする無意識的な防衛である。それは、心理臨床の妨げになるが、その一方で、セラピストとクライアントの両方にとって、自分の経験の自由や可能性を広げる〈好機〉ともなる」と書いています。

 

結局は、「自分はどうしたいか」なのだけれど、「自分はどうしたいか」を自分で考えることの力を削ぎ落されてきた現代人にとって、「自分はどうしたいか」を自分で考えることはとてつもなく難しいことがあるようです。

 

そのため、まずは「自我育成」がどうしても必要になる。

 

良くなってくると、自分軸で「いまの現実」に地道に取り組めるようになる。それは、妄想から降り、人生の目的や目標をもって生きることでもあるように思う。

 

日本における社会病理、同調圧力について

  • 2020.04.23 Thursday
  • 13:09

 

「病理」とは、もともと生物学や生理学に由来し、生命有機体の諸器官が正常でない状態を意味している。

 

こうした病理の概念を人間の行動や生活状態に適用しようとすると、何が病理で何が健康かということに関して、簡単には同意は成立しないものである。

 

例えば、中流階級にある者は、ヒッピーたちの生活様式を病理と見るかもしれない。

 

逆に、ヒッピーたちは、消費社会にどっぷりとつかり業績主義に明け暮れている中流階級を病理と見るかもしれない。

 

というわけで、社会の病理を定義するときには、生活の当事者たちの病理観を出発点とする必要がある、とされている。

 

しかし、ここで問題が生じる。

 

マジョリティとマイノリティ問題である。

 

何が病理であるかを定義しようとすれば、多数派の意見が採用されやすい。

 

少数派の方が、実は、健康であったとしても、それは「おかしい」とされるケースは山ほどある。

 

特に、日本社会では「村八分」文化や、「同調圧力」が根強いため、少数派であることそれ自体が裁きを受けることがままある。

 

これこそが、今日の日本の社会病理といえるだろう。

 

周囲に同調することが、共同体の定義ではない。

 

利害や目的を共有することは、共同体において必要だが、利害や目的を達成するためには異なる意見がたくさん出され、豊穣な議論と行動がなされなければいけないだろう。

 

今日、地域共同体の成立の難しさには、「周囲に同調しないといけない」という目に見えぬ圧力があるように思える。

 

これは、精神分析の病態水準でいえば、隠れ自己愛性障害の水準である。

 

今日の大人たちはみな、「いい子」であることを求められながら育ってきた世代だ。

 

おいいつけを守り、周囲の空気を読み、権威に合わせる「いい子」であることが、生き延びるために必要な態度として教えられてきた世代だ。

 

その息苦しさを、実は、ヒリヒリと感じている人は多いのではないだろうか。

 

しかし、どうしたらよいのかわからない・・・。

 

そこで行き詰っている人たちが多いように思う。