本質ばかり

  • 2020.03.04 Wednesday
  • 15:42

 

本質ばかり。

 

自分の講座の録音を聞いていたら、我ながら、本質的なことしか話していなくて驚いた。

 

そうだった。

 

私は昔から、「本質」ばかりを問うてきた。

 

「本当のこと」が知りたくて、様々な学問領域を学んできた。

 

マスメディアと大衆が作る、擬似環境ではないところで生きてきた。

 

それは、譲れないことでもあった。

 

本当のことを知るのは、ときには怖い。マジョリティとは異なる世界へ移行するから。

 

でも、本当のことは、人生に確かさを与えてくれる、と私は思っている。

 

「私はただ、ここにあっただけだ」とは、禅の教えでもある。

 

 

***擬似環境(ウィキペディアより)***

 

社会学者、W.リップマンが提唱した。

 

マスコミによって構築された環境のことを疑似環境というわけであり、現代社会においての民衆というのは、この疑似環境で暮らしているということに他ならないということである。

 

疑似環境というのはマスコミの情報の受け手によっても構築されているということであり、現代社会に住む民衆というのは、マスコミが伝達する膨大な情報を統合して理解するという能力が有されていない。

 

このために情報を適当に取捨選択して、自らの生活にとって都合の良い像を自らの頭の中に作り出すといった行いをしており、このような行いからも疑似環境というのが作られていくということである。

子育ての大切さを考えられるようになった時代に添えて

  • 2020.02.05 Wednesday
  • 15:42

 

現代人が抱える心のテーマについて、少しお話したいと思います。

 

戦前と戦後で大きく変わったことのひとつに、家族形態があります。

 

 

私たちは基本的に、自分が生まれ育った家族(定位家族)の常識しか知りません。

 

戦後の家族形態は、家族社会学では「近代核家族」を呼ばれる特殊なものなのです。

 

それは、「夫、妻、子ども」という家族構成と、男性が「サラリーマン(従業員)」という働き方をし、女性は家事や育児をおこなうといういわゆる「性別役割分業」によってなる家族形態です。

 

現代は、女性の社会進出もすすみ、女性もサラリーマンをしながら家事育児をおこなうという、いわゆる「ワンオペ育児」が話題になっています。

 

そこから芋づる式に、保活問題などが出てきます。

 

このような近代核家族マインドのままの家族のあり方は、にっちもさっちもいかなくなりつつあり、多くの方たちが悩んでいます。

 

 

話を戻します。

 

近代核家族になりたつためには、「住まい」の問題と「子育て」の問題が一挙に解消されなければなりませんでした。

 

そう、女性ひとりで家事育児をこなすためのネットワークが、社会的に用意されたのです。

 

それが、団地でした。

 

団地に住む近代核家族の中では、誰もが子育てを手探りでおこないました。

 

それまでは、祖母たちから連綿と続いてきた子どもを育てるためのネットワークが分断されてしまったのですから。

 

 

このような子育て環境のなかで、1980年代頃から子どもが親に暴力を振るう家庭内暴力がニュースをにぎわせるようになりました。

 

今日は、引きこもりとしてこの社会の闇の中にひっそりと息をひそめている、50代以上の人たちが驚くほど多くいるのです。

 

 

子育ての結果が出るのは、何十年もかかります。

 

私たちは、今日の社会問題をみて「ああはなりたくない、うちの子は大丈夫かしら」と忖度したり心配する前に、ひとりひとりが子育てのあり方について真剣に考えなければならないところにきていると思います。

 

近年、精神分析でも注目されてきている「愛着理論」は、私のこの着眼点を確かにするものといえます。

 

 

また、日本には、子育てのための文化として野口整体があることも、ぜひ知っていただきたいと思います。

 

「子どもは、親の注意を集めて生きる」というのが野口整体の子育て法の基本です。

 

これは、愛着理論では「調律のとれた応答」と呼ばれるものだといえます。

 

 

人間の心は、関係性の中で育まれます。

 

そして、心は大人になってからも、育まれ続けます。

 

このことの大切さを、日々、お伝えしたいと思っています。

 

お母さん、それを言ってくれてありがとう

  • 2020.01.09 Thursday
  • 15:45

 

息子が水ぼうそうになりまして。

 

整体的には水ぼうそうを経過すると、腰が育つと言われています。

 

とはいえ、6歳になった息子からすれば、体にポツポツが出るのは、初めての体験(息子が記憶のない頃に、はしかやらはやっているけど)。

 

今日、足湯をしていたら、息子が涙目になりながら、

 

息子「あー、気持ちいい。お母さん、これで水ぼうそうが治る?」

 

私「そうだね、お熱を出し切って、ポツポツも出し切って、そうしたら治るね」

 

息子「(涙声で)久しぶりだ。こんなポツポツ久しぶりだ」

 

私「怖かった?」

 

息子「(涙目で目をウルウルされながらうなづく)お母さん、それを言ってくれてありがとう」

 

私「もう大丈夫だよ、これで腰が強くなるよ(目がウルウル)」

 

あぁ、そうか。

 

大人からすれば、誰もが経過すると思っているものでも、子どもにとっては初めてなのだ。

 

自分の変化は、怖いに決まっている。

 

怖さを共感してくれる他者が必要なんだ。

 

心も同じだ。心にも、引かなきゃそこが育たないという風邪がある。

 

なるほど、だから大人たちは、心の風邪を引きたくない。怖いから、変化を拒む。意固地になる。

 

怖さが守られる、関係性があればよいのだろうな。

 

また、息子から、教わったなぁ。

 

いつもありがとうございます。

 

治ったら、また乾杯しよう(中身はお水です)。

野口整体の子育てを現代の文脈で捉え直したい

  • 2019.12.22 Sunday
  • 15:57

 

野口整体やっててよかったと思う、今日は冬至だった。

 

子どもが8ヶ月くらいの頃はまだ前職の仕事をしていて、こどもは風邪ばかりを引いて全然保育園に行けず、藁にもすがる思いで、野口整体の道場に駆け込んだ。

 

それからもう6年か。

 

子どもが風邪を引いたとき、怪我をしたとき、私にできることがあること、経過を観察し、大丈夫と思えること、安心して見守れる

こと、整体やっててよかったと、あの頃の不安や苦悩の日々が走馬灯のように駆け巡りながら、思ったのでした。

 

熱が上がってきて節々が痛んでいる最中、

 

息子「お母さん、僕をあきらめないで!!」

 

私「あきらめないよ!」

 

熱が上がり切り、落ち着いてきて、

 

私「さすがだね」

 

息子「さすがなのは、お母さんだよ」

 

私も少しずつ腕が上がってきている実感もありますが、やっぱり私の野口整体の先生に観てもらうと、「あぁ、さすがだなぁ」とい

つも思います。風邪の経過がすっかり済むという感じだし、それ以上の諸々にはいつも驚く。

 

もちろん、整体でできること、西洋医学でできることがあって、どちらも良いところがあり、本質を見極めながら活用したいものです。

 

子育て中の人たちが野口整体から得られるものはほんとうにいっぱいあるなぁ、と思います。そういう私は、野口整体に出会ってから、きちんと学び始めるまでには、一年かかったな。

 

あまりにも、パラダイム転換が大きすぎて、最初はよくわからなかった。

 

マドモアゼル愛の音叉、528ヘルツチューナーはほんとうに素晴らしい。それを発見された小平整体塾の高橋先生にも感謝。

 

これを風邪のときや打撲したときに使うと、効果てきめん。もちろん、それまでの体育て心育てがあってのことかもしれないけれど、ほんとうに助かってます。

 

息子「お母さん、今日の僕のお世話、たいへんだった?」

 

私「ううん、久しぶりに一緒にゆっくりできたね」

 

私、息子に育てられている。

 

なんて可愛いのだろう

  • 2019.12.05 Thursday
  • 16:01

 

毎晩、子どもが寝ついたこの瞬間(一緒に寝落ちすることもあるけど)、あぁ、なんてかわいいのだろうと、心底思う。

 

妊娠中に散歩していたときに出会った老女に、「寝顔は天使だよ。昼間はうるさいけどね(笑)」と言われたことを思い出す。

 

毎晩のように。

 

概念の力、教養の力

  • 2019.12.03 Tuesday
  • 16:05

 

概念の力、教養の力。

 

大学院にいた頃、主婦となった40〜50代の女性たちが、改めて大学院生になって学びに来ていた。

 

「自分の生活で悩んでいたことに、光が当てられた」と言い、「概念の力」について話を交わした。

 

それは、世界に一筋の光が当てられるようなもの。行き詰まっていた闇に、扉が見つかるようなもの。

 

それを、P.バーガーは、態度変更(オルタネーション)と呼んだ。

 

最近また、概念や教養が人に力を与えることを目の当たりにした。

 

すごい、と思った。変容を目の当たりにするのは、心が震える。人間の力に感動する。

 

日本は学歴社会の弊害なのか、積極的に勉学をバカにする傾向があるのは、残念に思う。

 

学歴がすべてではないし、それがあるから偉いとかでは全くない。学歴を批判するのはそれが欲しいからなのかもしれない。傷ついた

体験があるのかもしれない。

 

しかし、教養(リベラルアーツ)は自由への技術であって、人生を豊かにするために積極的に活用したいと改めて、思う。

 

小此木啓吾『自己愛人間――現代ナルシシズム論』を読む

  • 2019.11.26 Tuesday
  • 10:28

 

小此木啓吾さんの『自己愛人間――現代ナルシシズム論』を読んだ。

 

読了後の感想は、「痛い」の一言に尽きる感じがある。

 

自分自身のことを言われているようで痛いのもあるが、小此木先生が精神科医だからだろうか、社会変動や社会意識の変化という観点が欠如するゆえの、何とも見晴らしの悪い感じがあった。

 

この本は1981年に書かれているので、ちょうどバブルがもうすぐ崩壊するといった頃か。

 

この世代の人たち(1930年生まれ)の、これからの時代を杞憂する気持ちはわかるし、この世代の人たちによる若者バッシング論はたくさん読んできた。

 

しかし、新しく登場してきた人間たちを迎え入れるというか、もう少し大きな視野で考えるというか、次世代を考えるというか、結局のところ、「自分たちは正しくてこの人たちは間違っている」というこの世代特有の認識のゆがみ、それこそ自己愛があって、その壁は超えられていないような気がする。

 

とはいえ、もちろん、書かれている自己愛人間の分析は素晴らしい。

 

たいへん勉強になる。

 

特に、自己愛人間のイリュージョンに関する話は、たいへん興味深くて納得するし、「あぁ、現代ってこんな人間ばかり…」と途方にも暮れる。

 

小此木先生によれば、自己愛パーソナリティとは、

 

(1)自分についての誇大感――自己誇大感をもっている。自分は特別だとか、自分の能力は人よりすぐれていると思っている。心の中に、人並みはずれて素晴らしい理想的な自己像を抱いている。

 

(2)限りない成功、権力を獲得すること、より美しくなることなどの理想の実現を休みなく追い求める。

 

(3)絶えず、周囲からの賞賛や賛美、好意、親切、特別扱いを得ようとする。

 

のが特徴としてあげられている。

 

 

何よりも、自己愛パーソナリティのもっとも重要な特徴としてあげられているのが、以下。

 

主観的な思い込みの中で暮らし、本当の現実とつながらないところで自信をもち安定しているという事実。

 

さらに言うと、自己愛パーソナリティの人びとは、

 

主観的なイリュージョン(錯覚)の中で暮らしているので、現実の経験をすべて自分の自己愛を満たすように都合よく解釈し、そう思い込んでしまう心理状態がある。

 

と言います。

 

 

そう、自己愛パーソナリティの人には、「他者」がいないのです。

 

他者は、「自分の手足」だと思い込んでいるのです。

 

巧みに手足かするケースもあれば、力づくで手足にするケースもあります。

 

 

なぜでしょうか?

 

私が知りたいのはここです。

 

 

自己愛パーソナリティについて、社会学的にも分析を加えるとすれば、「空気を読む、忖度する」といった日本に土着的であった関係性から脱却し、「個を生きながらも他者とつながる」という次の時代への過渡期として、こうした心性が現れていると考えます。

 

ブログだと書ききれないので、そのうち、自己愛パーソナリティの勉強会を企画したいと思います。

 

 

めんげんと失敗について考える

  • 2019.10.20 Sunday
  • 19:24

めんげんと失敗について考える。

 

めんげん、好転反応は、良くなっていく過程で一見悪くなったように観えるような状態や症状や出来事があること。

 

関係療法では、エナクトメント、に近いのかもしれない。エナクトメントは、これまでの臨床心理ではカウンセリングの失敗として考えられてきたものだそうだ。

 

野口整体と関係療法をやり始めてから何度もめんげんはあったけと、いま具体的に思い出そうとしたら、ひとつしか思い出せなかった(40度の高熱のあとに、口の中から直径1センチの白い玉が出てきたこと。熱がめんげんで、白い玉は排泄。)。

 

そのときは、「あぁ、めんげんしんどい」と思ったことは覚えているのだけど、めんげんを経過するとすでに立脚する世界観が変わってしまうからなのか、すっかり忘れてしまっている。

 

身体のめんげんは比較的わかりやすいけれど、心のめんげんは関係性も絡むからわかりにくい。

 

関係性の中で痛み(怒り)の感情が出せるようになってケンカが始まる、なんてのは、よくあることだ。

 

それまで抑えていた感情を出せるようになったのは、主体的に生きられるようになるからでもあるけれど、どうしてこんなに感情が収まらないんだと、びっくりする人もいるだろう。

 

それまでどれだけ抑えて生きてきたのか。ケンカになるのが嫌なら、そのまま抑えて生きるのが本人の人生にとってよいのか。それはよくわからない。

 

ただ、主体的生きられるようになると、感情が収められるようになっていくことは確かだ。そこまで至るには、なかなか道が長いこともあるけれど、主体的に生きられると、自分への安心感がもてるようになる。そして、周囲の感情に下手に振り回されなくなる。それはとても楽だ。

 

それから、一見、失敗に観えるものも、めんげん的な要素がある場合がある。

 

日本社会では、「失敗すると落第者で、取り返しがつかない」みたいな風潮があって、みんなこぞって失敗に恐れおののく。

 

学生なんかは、受験や就活の失敗で人生終わったかのようにとらえてしまう人もいる。私も受験に失敗したときは、人生終わったと思ったことがある。

 

しかし、関係療法では、「失敗は成功のもと」という、当たり前のことを応援する。

 

失敗したら、現実的に対処すればよいだけのこと。

 

あなたのせいではない。誰かのせいでもない。

 

ここで、失敗を「あなたの能力が足りない」とか、「◯◯さんが〜〜しなかったからだ」とかやり始めると、恥トラウマを抱えることになったり、精神病水準の悪循環に陥り始めたりする。

 

恥トラウマは、きつい。失敗を恥と結びつけてしまう、日本人の心性はその人ほんらいの生き方を狭める。ずっとひとりで恥と痛みを抱え続けることになる。

 

「事なかれ主義」は、関係性や組織の中での失敗を巧妙に隠蔽しようとする。

 

これが、いわゆるグレートマザー元型とかかわる。自己責任といって、結局、誰も責任とらない、そういう組織や関係性を作る。

 

日本社会の多くの人がここで苦しんでるのに、やはりみんな、失敗をめんげんをおそれる。

 

その気持ちはよくわかる

 

「祈り」にかえて――上野千鶴子『生き延びるための思想』(1)

  • 2019.09.10 Tuesday
  • 07:04

 

13歳の頃、父に背いて教会を離れた。

 

……それ以来、わたしは「祈る」ことをやめた。

 

多くの者が、祈りながら無惨に殺されていった。祈っても、祈らなくても、受難はひとしなみに訪れた。

 

私がフェミニズムを選んだのは、祈らずにすむためである。

 

ユートピア(どこにもない場所)を夢みなくても生きていけるように。

 

理不尽な暴力や、不当な差別や、ことばにならない無念さを前にして、

 

「共に祈りましょう」と、

 

言えたらどんなにいいだろうか、といく度思ったことだろう。

 

だが、わたしはそのコトバを自分に対して禁句にした。

 

フェミニズムはこの世の思想。

 

この世を生き延びるための女の思想。

 

「祈りましょう」と無力に唱える代わりに、

 

いま・ここで生き抜くための方途を、

 

ともに探ろう、としてきた。

 

……「神様、わたしにお与え下さい  

   変えられないものを受け入れる落ち着きを

   変えられるものを変える勇気を

   そして、その二つを見分ける賢さを」

 

そう、わたしたちに必要なのは、たぶん、祈りと知恵の両方だ。

 

だが、あまり早く「祈り」へ跳躍してしまわないように。

 

そのまえに、やれること、やるべきことはまだまだあるのだろうから。

 

(上野千鶴子「「祈り」にかえて」『生き延びるための思想』pp305-308)

 

見田宗介『現代社会はどこに向かうか』を〈心〉との関係から読む(2)

  • 2019.08.18 Sunday
  • 14:55

 

「合理と非合理を自在に往還する精神=〈メタ合理性〉の水準こそが、近代合理主義の後の時代の、精神の骨格を形成するものと考えることができる」(41頁)

 

と、見田さんは書いたうえで、NHK放送文化研究所の「日本人の意識調査」のデータを分析しながら、「再魔術化」について触れている。

 

それは、「信じているもの」について聞いた質問項目への回答の、1973年時点と2013年時点での変化から記述される。

 

2013年では「あの世、来世(21%)」「奇跡(26%)」「お守りやお札などの力(26%)」「易や占い(11%)」を信じると答えた割合が、73年に比べて10〜15%以上増加しているのである。


見田さんは、「この意識の変化が、〈メタ合理性〉であるわけではないが」と論じたうえで、「手さぐりの試行錯誤の触手たち」だと述べている。

 

見田さんが論じる〈メタ合理性〉について、私はまったく同感するし、それが次の時代の精神の骨格であるという直観についても、とても共感している。

 

しかし、意識調査に現れているそれらは、〈メタ合理性〉への触手だとはやはり考えにくいと思っている。

 

意識調査の結果はむしろ、《混沌とする社会現状への思考停止状態》であって、精神分析の用語でいえば《解離》であって、未成熟な人間の「どうにかなるさ」という地道さのなさ、に思うからである。

 

1980年代から始まった自己啓発セミナーは今日ではいわゆる「スピ系」といわれるようなジャンルとなって存続し、バリエーションも増えてきている。

 

おそらく、見田さんがこれらのカルチャーに接触する頻度の少なさからくる、記述の限界であるように思う。

 

また、未来への種まきとしての、こうしたカルチャーに属する人たちへのメッセージなのかもしれない。真実は、聞いてみないとわからないが。

 

 

「混沌としすぎていてよくわからない、考えれば考えるほど不安になるから、考えるのをやめよう。どうにかなる」と、見たくないものを切り離してしまうのは、あきらかに《解離》だ。

 

手間ひまを惜しみ、ことなかれ主義を生きようとする心性だ。

 

なぜこのような心性が生まれたのか。

 

それは、近代合理化によって可能となった未来予測と、未来への計画が立てられるようになったがために生じる《不安》が、そうしたのである。

 

《不安》を感じられるのは、人間の意識の進化でもある。

 

しかし、《不安》の取り扱い方がわかっていないのが現代社会だ。

 

結局、将来のためにと保険をかけるしかなく、それは《いま》を生きることを忘れさせる。

 

これからの私たちに求められるのは、こうした《不安》を抱えるだけの心の器を創ることである。

 

それができて初めて、〈メタ合理性〉という精神骨格が創られると考える。

 

《不安》を抱えられるだけの心の器ができて初めて、他者を交歓できる、他者に共感できるのだ。

 

そこに、躁転はない。解離はない。防衛はない。そうしてやっと、平和につながる。

 

 

柳田国男「あれはあれ、それはそれ、ふたつを生き分けて何の屈託もなく…」

 

見田宗介「シーザーのことはシーザーに、魂のことは魂に」

 

となるには、これもまた安定した関係性の中で現代の通過儀礼である《抑うつポジション》を経過させられるだけの、《心の器》を拡げていくことしか道はない。

 

見田宗介『現代社会はどこに向かうか』を〈心〉との関係から読む

  • 2019.08.18 Sunday
  • 10:33

 

大好きな見田宗介さんの本を久しぶりに読んだ。

 

2018年に出版された『現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書)である。

 

実直な統計データに基づきながらも、ダイナミックな論を展開するその力強さには、いつも感嘆する。

 

ただ、私が社会学からさらに深層心理学や精神分析などを学んだせいだろうか、やや物足りなさを感じたのも事実である。

 

見田さんの直観の鋭さはほんとうに素晴らしいが、その直観を説明するには社会学だけでは足りない、と言った方が正確だろう。

 

それは、例えば、108頁などに端的に書かれている。

 

2008年の秋葉原の事件や、2011年の東日本大震災、それよりも前から社会問題化してきたリストカットする若者たちに言及し、次のように書いている。

 

「リストカットの少女たち、無差別殺人の青年たちが求めているものもあの被災地に駆けつけた若者たちが求めているものと、同じものであるのではないかと思う。少女たち、青年たちが、自分を傷つけたり人を殺すのとはべつの仕方で、生きるリアリティを取り戻す仕方を見出した時に、歴史はまた一つ新しいページを開くのだと思う」(108頁)。

 

ここで、見田さんは若者たちが「生きるリアリティ」に渇望しているという現状があり、そのリアリティを渇望するエネルギーが自分自身や他者を傷つけることに向かう場合と、他者を援助しようとする方向に向かう場合があることについて書いている。

 

私も、このエネルギーは援助と自害/他害という、一見、真反対の方向に向かう力があると思う。

 

エネルギーが援助の方向に向かえば、社会的には「いいことしている」という評価がされるため、その奥底にある心の渇きはなかなか見えてこない。

 

福祉系の職を目指す若者たちを教えていたとき、彼ら/彼女らの多くが、自分自身が何らかの被害者であることを知った。

 

長く勤める先生に聞いたら、「ほとんどそうです」と困ったような変な顔をしながら言っていた。

 

一方で、エネルギーが自害/他害に向かうと、社会的には「問題」とされる。心の奥底の渇きが癒されることなく、彼ら/彼女らはますます自分自身を責めていく。

 

 

「生きるリアリティをどうしたら取り戻せるのか?」

 

という見田さんの問いは、彼ら/彼女らの心の渇きについて知る必要がある。残念ながら、この、心の渇きについては、社会学ではアプローチしきれない。個人心理学でも難しい。

 

なぜなら、この心の渇きは「自己活性化」の不全に基づくものであるからだ。

 

自己活性化とは、たったひとつの自分の個性を生きていくこと、である。誰に押し付けられるのでもなく、誰かの模倣でもなく、世間の評価などは気にならない生き方。

 

そこには、真の自由がある。

 

「自由」を求めた60年代〜70年代の若者たちの叫びも、自己活性化とかかわるとみている。

 

それは、社会学者・小熊英二氏が『1968』で明らかにしたように、学生運動に参加した人たちにリストカットや摂食障害がみられたこと、アイデンティティの渇望だったことからうかがいしることができる。

 

この自己活性化は、日本社会では「出る杭は打たれる」「空気を読む」という社会環境・人間関係がほとんどであるため、多くの人が「不全」で終わってきた。「不全」で終わると、その後、様々な症状となった心や体に現れる。

 

自己活性化が再び促進されるには、安定的な関係性における心の育みが必要だ。

 

これには一種の「治療」というべき心理療法が必要であり、「病気」として「診断」されないがために取り組みが困難になっている、現代の社会病理なのである。

 

マジョリティが病理であれば、それは病理として社会に認識されないことは、E.デュルケムが論じた通りである。

 

今日のマジョリティの病理は、パーソナリティ障害がテーマとなっているが、そのことについて論じるのは次の投稿にする。